テレビを見ていたら競馬の騎手で名高い武豊さんが爽やかな笑顔でトーク番組に出演されていた。「今までの多くの勝利の中にも失ったレースの方が多いですょ」と笑いながら語られていた。聞き手は、「何か座右にしている言葉はありますか?」との質問に彼は「八風吹けども 動ぜず」です。
流石“勝負師”ならではの座右 私の心にも響いた。この言葉は、中国の寒山詩のひとつ「八風吹けど 動ぜず天辺の月」と言葉は続く。人生は良いことばかりはなく様々な悪い風を受けることの方が多い。そんな時の対処はその風が通り過ぎるのに任せるしかない。「駄目だったことはあまり気にせず自分を信じて前向きに考える。彼の愛馬にもこんどは行くぞ」と語りかけるそうです。そうした話を纏めると「 どんな風にも動じない心、たじろがない態度、天空の月のような不動心を持て」という意味が込められているようです。

八風の種類は、仏教の倫理に喩えられている。「風には追い風もあれば向かい風もある。それは人生と一緒。四方八方から吹く様々な風に動じずに生きろ、という意味を学ばれたそうです。こうした八つの風を認識しつつ、惑わされず、生きることを「風流」という言葉で表せば、残された日々をそのように生きたいと思う。現代がストレス社会と思いがちですが、古今苦悩の種類は同じようです。

若い女性から老夫人に至るまで茶会に参加することで仲間意識も芽生え、社中もさらに隆盛になる。しかしこれが本来の隆盛であるのだろうか?世界文化社から出版された新書の中に、有馬頼底という高僧の書かれた一冊の本を手にした。これは縁あって編集された方より頂戴した尊い本。この本を手にした時、私とは無縁に思える高僧の書かれた書物なので共感する本であるかどうか不安に感じながら拝読した。冒頭、千利休を茶祖として、四百年の歴史の内お茶が盛んだったのは、百年にも満たない。男性が命をかけて禅の境地を探ろうとした茶の湯。「利休ほどの茶人が七十年かけても答えがでなかった茶の精神をこのような遊び事で終わらせてしまうのは実にもったいない。」と辛口で語られている。確かに昨今の茶は、生活から遊離して大寄せ中心の茶会なので茶の湯本来の形式は失われています。この本に接して感じたことは、まず自分にできる最高の持て成しができるかどうか。流派にとらわれず良いと思うことは、取り入れ、自分で道具を求める時もまず自分自身目を養い、自分の茶にうまく取り入れられるかを考える。決して名品がなければできないはずもないが、それが感動を与えるものであるかが重要と述べられている。客に対する抜かりない心入れがたいせつなので真剣勝負の茶事をもっと普及して欲しいと例文は続く。

禅語の解釈は奥深いもので、その人の置かれた意識世界を現し簡単には答えを言葉にできない。その人の体得した経験が奥深い意味に繋がる。僧の説かれるひとことひとことの話は尤もで、何をいわんか良く理解できた。このようにはっきり著書の中で語られた言葉は深く心に響きました。そしてこのように痛快に語られる僧がまだおられることを嬉しく思う。しかし残念ながら現状は、女性中心の社交である茶の湯は、そうした面白味のある数寄者が育つ環境にはない。これは熱海の海岸でダイヤモンドを探すより難しいものであると思う。私の師匠の遺言の中に、「百合ちゃんなぁ めくら千人の中に一人でも目あきがいると思って茶はするものだ」「十年平点前でいいから上の勉強からして下がるのは茶への理解は深まる」「まず十年習いの通りにしたら師匠のできない何かを一つくらいやってみるもんや」と若かりし日の私に語ってくれたことを思い出す。素晴らしい先達に恵まれた幸せが今の自分の宝となっているように思います。


やはり苦労して体得した経験がなければ人を説得する力はないでしょう。「無一物」で何もなく裸であっても人は皆、塵のない仏であると解かれている。しかし経験という宝や知識は誰からも持ち去られることはないので「本来無一物ではあるが無尽蔵である」という意味が続く。慧能のような叩上げの人間とは違う著者は高僧としてこの無一物への悟りをどのように体得されたのか伺ってみたい。しかし私はささやかな日常茶を完成しようとしている茶心に教わることの多い本であった。
数日来うつうつと寝るばかり身体を休めた。年齢からくる疲れは、当事者でないと解らない。私のこころの心棒も、すこし揺らぎ停滞したが、元通りにもどりつつある。朝はストレッチ運動を少し始めて、静かに写経用紙に向ってみた。しかし目に力が入らない。半分書いてこんどはパソコンのキーを打ってみた。心静かな日です。そしてお日和も良い。

旅行を共にしたご夫妻から色鮮やかな紅梅の写真葉書が届きました。無事に旅ができて嬉しかった様子が書かれている。元気な旅でよかったね。私の心に吹いた大風もお陰さまで今はそよ風となりました。しかし風邪は抜けない。困ったことに去年も今年も風邪を引いた。

心は弱いもので気の持ち方が少し狂うだけで身体は悲鳴をあげる。心の持ち方は元気の秘訣のようです。この数日ブログの更新がなく心配かけたので、簡単に心境を書きました。人は弱っていても、それなりの目標を持ち、新しいみちしるべを見つけなくてはならないようです。今遠い霧の彼方にそんな標識が見えたように感じています。


4日~5日間の予定で鹿教湯温泉に滞在しています。今年は何処に居ても寒い・さむい氷点下の気温です。いい湯だね♪憧れますが、いささか退屈な日々です。寝たり起きたりばかりでも体がダメになるような恐怖感にもさいなまれる。日ごろのあくせくの方があっているのかな?どうやら生まれ付きの
“ちょこまかさい”なのでしょう

友人夫婦と娘との4人で出かけました。私は年末からあまり元気はない。ゆっくりした時間を得たのがが引きかねとなったのか、今ひとつ気力も充実しない。今朝は温泉に入って、ストレッチ・蕎麦屋まで歩いてみた。しかし寒い!この日は氷点下10度です。明日は、エステを予約。何とかいつもの元気を取り戻したいと願いたい所です。


今朝は10時からロビーで「餅つき」が行われ、振舞われる日です。香高い臼の中の餅は、見ているお客様の心を暖めた。つきたての餅をほうばるのは、久しぶりのことです。年末に伊賀から贈られてくるお餅の有難さ、お心の尊さに感謝しながら眺めています。